【1】
「会長、どうかなさいました?ご気分でもお悪いのですか?お顔の色がすぐれないようですが」
 満たされた淡い光りの中で、絵に描いた聖女のような美しい女の顔がそこにあった。
 聞きなれた甘やかな声に、征徒会長一條鷲の白日夢は瞬時に霧散する。
「いや…なんでもない。少し考え事をしていただけだ」
軽く手を挙げて、年若い征徒会長は自嘲した。
「最近、少し疲れておいでのご様子ですわ。ご無理をなさってはいけません。あなたは我が光宮にとって大切な方なのですから…」
手にしていた書類を閉じて、貴子は媚を含んだため息を吐いた。
「司祭様も気にかけておいででしたわ鷲様」
「司祭様が…?」
 鷲の顔にわずかな精気が戻る。
 満足そうに貴子は微笑んだ。
「ええ、先日視察にいらした折に。鷲様は決してお丈夫ではないのでくれぐれもよろしく頼むよと、私におっしゃっていましたわ。お体は大切になさらないと」
 私塾である光宮の母体は『光の教団(カノン・ミレニアム)』と呼ばれる世界規模の宗教団体である。
 だが、光に満たされた世界を創ると言う『光の父』の教えを説くこの団体は、決して表に出ることはない。
 大きな歴史上の事件に、彼らが関与してきた例は数限りなくあり、結果的にその片鱗を垣間見ることはあっても、その全貌を伺い知ることは難しかった。
 深く静かに、考えられないような昔から彼らは存在している。
 いつの日か、『光の千年王国』をこの世にもたらすまで。
「司祭様…」
 不思議な紫の瞳をした美しい青年司祭は、鷲を事のほかかわいがっていた。
 鷲の方も、教団から派遣されてくるこの司祭を実の父以上に慕っていたのである。
 実際、鷲に父親の記憶はなかった。
 もっとも、『この体の父親』など、鷲にとって赤の他人以外のなにものでもないのだが。
「あら、いけない。お薬の時間ですわ、鷲様。今すぐご用意いたしますわね」
「ああ、ありがとう」
『薬』は体の状態を維持するために、欠かすことが出来ない。
 踵を返す貴子の背中を見送りながら、鷲は青い瞳の青年を思い出していた。
『もう時間が無い。早くあいつを手に入れなくては…』
 形のいい眉がひそめられる。

 全身の倦怠感は、そろそろ『身体替(うつわがえ)』の時期が来たことを鷲に予感させていた。
『身体替(うつわがえ)』―――それは、教団に伝わる恐ろしい秘儀。
 魂を転生させることなく、新しい『器』に移す技術だった。
 人の寿命は長くても百年。
 転生してしまえばせっかく学んだことも、一からやり直しになる。
 だがこの方法を使えば、ある程度の記憶と能力を持ったまま、新しい体に入ることが出来るのだ。
 ただし、宿主として選ばれた肉体の本物の魂は、寿命が尽きるまで眠り続けることになるのだが。
 鷲のように特殊な能力を持った魂を受け入れられる肉体はそうたくさん存在しない。
 まして、本来ならば人の使わない『力』を行使するために肉体の消耗は激しく、虚弱体質で若いうちにその寿命が尽きてしまう事が多かった。
「暁の魔王とはよく言ったものさ…」
 鷲は朧な笑いをその口元に浮かべ呟いた。
 類稀な『能力』を持ちながらも、健康な高校生活を送ることが出来る肉体―――。
 それがいかに奇跡的なことか、恐らく遥都本人は知らないだろう。
 若返りの秘術も本来なら耐えられる体は少ない。
 だが、遥都はそれすらほとんど障害なくクリアしてみせたはないか。
 遥都の体であれば、長く生きることが出来るだろう。
 鷲にとっては、喉から手が出るほど欲しい『器』だったのだ。
「何としても手に入れてみせるさ。司祭様のお役に立つためにも…」
 鷲は無意識のうちに、胸にかかった光宮の十字架を固く握り締めていた。

【2】
「離して、離してよみち子さん!」
「あたしたちじゃ絶対無理よ、止めなさいってば!」
「だってこのままじゃ分校君は消えちゃうかもしれないのよ!そんなの絶対いやっ!」
 校舎の昇降口で言い争いをしているのは、やみ子のお付きであるみち子とれい子の二人組みだった。
 S東高校は、今危機に瀕している。
 遥都の力の覚醒によって半壊した聖徒会室『下北分校』。
 氷の魔物によってプールに閉じ込められた保健室の鏡子。
 送り込まれた刺客に傷を負わされた、遥都の失踪。
 そして、学校全体にかけられた『死角の呪縛』。
 学校令と人間のより良い共存生活を掲げてきたS東校はかつて無いピンチを迎えていたのだ。
 理事長以下動けるものたちの攻防は苛烈を極め、消滅寸前まで追い込まれるものたちも後を絶たなかったのである。
「大雨が降っても日照りが来ても分校君はきっと壊れちゃうわ。黙って見ているなんてもう出来ない!」
「だからって、光宮に行ってもどうにもならないじゃない!あたしたちなんて消されておしまいよ!」
 相棒の無謀な行動を阻止するべく、みち子は必死で叫んだ。
 思い詰めた表情で、れい子はみち子を振り向く。
「あたし、聞いたことがあるのよ。光宮の征徒会長の噂」
「え…?」
「光宮征徒会長は何かの薬を飲んで若返るんだって」
「何ですって…?」
 そんな荒唐無稽な話…とみち子は笑えなかった。
 なぜなら、彼女は現実に幼い姿にされた遥都を見ているからだ。
 自分以外のものを若返らせることが出来るならば、自らの体を操作することだって可能に違いない。
 だとすれば、その『薬』を手に入れることが出来れば、確かに修復は出来ないまでも、じりじり壊れていく分校の崩壊を食い止めることが出来るかもしれない。
 れい子が藁にもすがる思いで飛び出そうとするのも、無理の無いことだった。
「まさか、光宮だって私たちみたいに弱い霊が乗り込んでくるなんて思ってもみないはずよ。トイレにさえは入れればきっと逃げられるわ」
「で、でもどうやって行くつもりなの?」
「塾に忍び込んでトイレに入るわ。あそこからならきっと行ける。やみ子様と一緒に一回行ったきりだけどなんとかなるはずよ!」
 れい子の固い決意に、とうとうみち子は折れた。
「わかったわ。じゃあ、私も行く」
「みち子さん…」
 予期していなかった意外な言葉に、れい子は相棒の顔をしげしげと見つめる。
 みち子は緊張に強張った顔に、精一杯の笑顔を浮かべた。
「あたしたち、どこまでも一緒よ、れい子さん」
「ありがとう、みち子さん!」
 幼い二人はしっかりと手をつなぎあって昇降口を出た。


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煙るような雨の中に僕は立っている。
激しく叩きつける雨粒の感触が、針のように肩に突き刺さる。
谺(こだま)のようなたくさんの叫びが、耳の奥で響いている。
あれは僕を呼ぶ声…?
白く煙った僕の視界に浮かび上がる赤い色。
___鞠だ。
あれは確か   がくれた…赤い…鞠。
………   ? あれは…誰だろう…

『どうか苦しまないで…』

あれは…
天使降る丘
―あまつかい くだるおか―
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